昭和 9年 |
三菱重工業名古屋製作所として、航空機の発動機部門の工場があった |
三菱重工業名古屋製作所
本館 (旧保健学科本館)
昭和19年
空襲前の工場配置図
昭和42年当時の大幸地区 |
昭和19年12月 |
名古屋大空襲による集中爆撃により建物は全壊、また爆弾・焼夷弾の落下爆撃で文字通りの焦土と化していた |
終戦後 |
財閥解体という占領政策により、膨大な地は、三菱精算事務所(のちに菱重株式会社)の管理下に置かれ、焼け野原のまま放置されていた |
昭和25年 5月 |
国立学校設置法の施行により、旧愛知一師・旧愛知二師・旧愛知青師の三師範学校を統合し、県内教員養成機関を一にして愛知学芸大学(現愛知教育大学)と改称し名古屋分校・豊川分校・安城分校が誕生 |
昭和25年12月 |
愛知学芸大学名古屋施設整備後援会と三菱との土地売買契約による所有権の移転
(大幸地区の起源) |
昭和26年12月 |
本館(現在の旧保健学科本館)の改修工事の竣工式典挙行
愛知学芸大学が、旧愛知一師校舎(東区東芳野町)から大幸地区へ移転 |
昭和28年 |
愛知学芸大学の附属小学校と幼稚園が、東区東芳野町から大幸地区へ移転 |
昭和29年 |
愛知学芸大学の附属中学校が、東区北押切町から大幸地区へ移転 |
昭和41年4月 |
愛知学芸大学が愛知教育大学と改称 |
昭和45年4月 |
愛知教育大学が刈谷市へ移転 |
昭和49年7月 |
愛知教育大学のサッカー場・ラグビー場として使用していたところが、学校法人内木学園(現至学館高校)へ売却 |
昭和50年7月 |
愛知教育大学から名古屋大学へ土地所属替 |